唯我独論

ルアー・フライフィッシング、気象等に関する独論を綴る

アングラーズスキルとメディアの罪

 釣りを上達させる上で最も大切な事は、基本的なスキルであると断言する。では、基本的なスキルとはどんな技術の事かというと、キャスティングであったり、ラインの結び方であったり、魚の生態を知る事であったり、自然から学ぶ心を忘れない事等であると私は考える。

ジャパニーズアングラーは、偶発的(ビギナーズラック的)キャッチが2度有ると、もう自分がマスターアングラーであるかのように勘違いしてしまう悲しき生き物らしい。島国や田舎地域の特性から来る人間的特徴なのか、ある程度のレベルに達したと勘違いした者の中には、自分以外のアングラーを嫌ったり寄せ付けようとせず、独自の理論を展開し、自分より下のレベルの者を集めては、自分が大将の独裁世界を築きたがろうとする傾向もある。また、自己満足度のレベルが低いというか目的意識のハッキリしないアングラーが多いので、その罠にはまり易いのもジャパニーズアングラーの特徴ではなかろうか。今まで数多くのアングラーを見てきた私は断言するが、上記のようなアングラー達は、悲しいかな進歩は望めない。つまり、ジャパニーズアングラーには「アングラーとして成熟するための素質」というものを備えていなかったり、その素質を摘み取られてしまう者が多いのだ。これは誠に残念な事である。また、経験も多くスキルも上級レベルでしっかりしているのに、始めた頃の意識レベルから変化が無く、時代の流れに無頓着なアングラーもなかなか進歩は望めない。つまり、これらの事を総合すると、心と技がバランス良くリンクしてステップアップしていく事が理想であると考えられる。しいてはその中に楽しみや感動も含まれていると私は考えている。私は何の為に釣りをしているのかと問われれば、楽しむ為と感動する瞬間を求めて、と答えるだろう。それ以外に答えようが無いし、他に答えがあるなら教えて欲しい。

 昔は現場に足繁く通いベテランに聞いたり、横でその技術を盗んで徐々にレベルアップしていったものである。それが現代では、メディアの発達によって現場に行かなくとも勝手にテレビの中から解説の言葉が発っせられ、全ての動作が映像として映し出されているので、録画でもしておけば細かい技術まで盗み放題である。これはある意味とても素晴らしい事ではあるが、ある意味とても怖い事である。その怖い理由とは、間違った知識や技術や考え方を不特定多数の者に同時多発で配信してしまうからである。例えばテレビ番組の中で放映された、ある影響力大のアングラーの言葉や技術が、間違いだったり不適切なものであったとしても、受け手はそれが当り前で正しい事であると捉え、自分の知識の一部とし、現場で実践し、あわよくば知り合いにまで鼠算的に広めてしまうからである。 文章というものはある程度ごまかしが効くし、書き方(表現方法や接続詞の使い方で)によって如何にでも逃げ道を作る事ができる。(私に騙された人ごめんなさい笑)しかし、映像はリアルタイムの動きだけにごまかしは効かない。技術レベルの全てを動く映像で公衆の面前に露呈してしまうので如何にもならないのだ。自分の技術に本当に自信が有るのか、単に勘違いしているのかは知らないが、動くメディアに出る事ほど恐ろしい物はないと自覚しているのだろうか。しかし、勘違いしている人はそんな事に気付いている筈はなく、出れば出るほど周りの人が煽りたて、更に勘違いを助長していくのである。これは勘違いしている方にとっても煽る方にとっても、誠に寂しく悲しい現実である。(悪い意味で騙されている人はご愁傷様です)そんな事からも本物を見抜くこと、何が正義で何が偽者なのかを見極めることがとても大切で、今の時代、常に私達はそれを養い実践していかなくてはならない寂しい時代に生きている事も自覚した方が良い。

 「狂信的集団」といって思い付く集団には、ほとんどまともなものは無い。古くは日本赤軍、新しきはオウム真理教といった、世界の歴史にも名を残す極悪組織ばかりである。しかし、一般的に見ると倒錯的破壊的思想の集団であっても、心のどこかに傷や隙間のある人間にとっては、素晴らしく心の癒える集団であったり気の合う仲間達だったりする事があるのも想像に難くない。日本人は無宗教的な生活を送っている人が多い。しかし、世界では簡単に別けて神様・仏様・キリスト様の内のどれかを信じている事が当り前である。海外遠征に行って驚いたのは、どんな場所だろうとも現地ガイドが定刻になると必ずお祈りする事だったと言っていたアングラーがいた。現地ではごく当り前の日課なのだろう。宗教とは単純に心のよりどころであり、自分の考え方や行動を決める為の指標でもある。人間が何らかの集団を作っている場合、それがどんな集団であったとしても、そのベースには心のよりどころ的な要素と同じ考え方を持ち行動を共にするという要素が含まれているはずである。上辺の行動や方法が如何であれ、ベースにある気持ちとか考え方が元来一緒であるのならば、その最終目標に向かって何か事を始める時や何か事が発生した時には、単純に共に行動を越し、協力し、戦う事が出来るはずである。それこそが集団としての基本姿勢であり、メリットであると考える。個人行動では不可能な事を可能にし、対外的にも強力なものとなりうるのも集団のメリットではないかと考える。だからこそ方向を間違えた日本赤軍やオウムのように悪の力であっても歴史に名を残す事件が起こせたのである。